その夜、景麒の手はいつもより冷たかった。 ◆ ◆ ◆ 女官たちが退出の口上とともに臥室を辞してから、大分経っていた。 ひととおりの用事を済ませた後、袖机の灯りを消して、陽子は牀榻へ向かう。天蓋からかかる紗を上げようとした陽子は、ふと手を止めて振り返った。
裏の庭院に面した窓の下から、かすかな物音が聞こえたような気がしたからだった。――こんなに夜更けに。
うっすらと見当はついたものの、剣を収めた場所をとっさに目で確認して、陽子は窓に近づく。
掛け金を外して玻璃を押し開くと、窓のすぐ下で身動きする気配があった。
遠く木立ちの向こうから届く灯籠の光を受けて、淡い金髪が浮かび上がる。――夜の中から身を起こしてこちらを見上げたのは、景麒だった。
それほど驚きもせずに陽子は手をさし出し、室内へ上がってくるようにと促す。――彼自身は気づいていないだろうが、こんな風に辺りが静かなとき、その独特の気配を感じ取るのはそれほど難しいことではない。
けれどゆっくりと顔を背けた景麒は、その手を取ろうとはせず、窓枠に手をかけてそれを越えると暗い室内に降り立った。
ここ三日ほど、景麒は朝議を欠席して瑛州領内の各地を回り、王の名代として幾つかの行事に臨んでいた。昨日の夜遅く、彼が王宮に戻ってきたのは知っていたが、休日を控えていたこともあり、顔を合わせるのは明後日の朝議になるはずだった。
一度臥室に引き取った後でここへ来たのだろう。羽織っただけの袍の下は夜着のままだった。
そう問われて首を横に振った後、景麒は短く答えた。――夢を見たので。
「何かあったのか」
「……夢?」 それはどんな、と訊ねても返事はなかった。その代わり、腕をのばして陽子を捉えると、抱きしめた赤い髪の中に景麒は深く顔を埋める。
いつからあの場所に立っていたのか、彼の袍は冷え切っていた。 「我々のような生き物にとって――夢と現実にそれほどの違いはありません」
重みを増したその身体を受け止め切れず、陽子は思わず膝を崩した。それでも景麒は顔を上げようとしない。 彼を支えようと床に後ろ手を突いたとき、のばされた手がそれを払い、受け止め損ねた身体とともに、陽子は床の上に倒れ込んだ。 わずかに身を離し、自分が組み敷く形になった主を無言で見下ろしていた彼は、やがて手をさしのべてその首筋に触れた。
――なんて冷たい手を。
身動きもしない陽子の上に、低い声が降ってくる。
「……抵抗くらい、なさって下さい」
夜に紛れてその表情は判然としなかったが、彼が今どんな目をしているかは想像がついた。
ああ、と陽子は声もなく呟く。――おまえはわたしを、試しているんだ……。
普段は必要以上に冷静なこの麒麟の中で、時折本能と心が均衡を失うことがある。それは大抵、過去の喪失を思い起こさせる何かがあったときだと知っていたが、彼がそれを抱えたまま自分のところに来ることは多くなかった。
どんな夢を見たというのだろう。――わたしがもうどこへも行かないことくらい、おまえにも分かっているだろうに。
ため息とともにその首に腕を投げかけて、陽子は囁く。
「――しないよ」
短い沈黙の後、返事の代わりに回された腕が陽子の身体を抱き上げた。
――――――――――――――――――――
抱き下ろされたのは牀榻ではなく、すぐ傍にある榻の前だった。
榻に手を突いた陽子の身体に後ろから腕を回し、景麒はゆっくりと首筋に唇を落とした。
前に回されたその手が陽子の衣の襟を、そしてもう片方の手が帯を、静かに外していく。
いつもとは違うやり方と早さで触れられると、自分の身体がどんな輪郭を持っているのかが良く分かった。――たとえば膝の裏側から背中までが、どんな線で結ばれているのか。たとえば腕から肩の窪みまでの曲線が、どんな弧を描いているのか。
後ろを向こうとすると、首筋に触れたままの唇が囁いた。
――怖がらないで下さい。……どうか。
そして夜着も帯も、すべてが床の上にすべり落ちた。
……顔を見たいと思ったのは、彼を気遣ったからだ。
行為のさなかに、時折彼が形容し難いまなざしを自分に向けていることは知っていた。愛情と呼ぶには複雑すぎる視線の中に、それでも確かに微熱をはらんで愛情に結びつくものを見出すとき、景麒はいつもどこかが傷ついたような顔をしていた。
そうしたとき、腕を回してその存在を抱き取りたいと陽子は願う。けれど今、行き場を失った両手は榻を掴むしかなかった。
視界のどこにも彼は映らず、それが不可解な震えを身体の芯に呼び起こし、陽子は錦布を握った手に力を込めた。
冷たい手が身体のどこかを掠めるたびに、逆に熱いものに触れたような感覚が残る。それは我を忘れた動きというよりも、痛む場所を庇うような手つきだった。
――そんな風に、壊れものみたいに扱わなくていい。
そう言いたかったが、すでに声から言葉は失われていた。
やがて低い声が、何を、とは告げずに了承を求める。
言葉にならない答えを返すと、膝の裏にすべり落ちた手が片脚を捕らえ、背中に寄り添うように景麒の全身が重なった。
わずかな空白の後、どちらのものともつかないかすれた声を伴った吐息が、榻についた手の上にこぼれ落ちる。
凝縮し、そして身体全体へ拡散していく熱。
この瞬間――再び動き出すまでの数秒、いつも世界のすべてが静止する。
堪えかねて肘を折ろうとするたびに、景麒の腕が後ろから身体を支えた。
冷たい手――そして温かい唇。
相反する二つの感覚の中で、重い不協和音のような動きが複雑に入り組んだ愉楽を生み、陽子はしばしば声を殺し損ねた。
どんな風に試されても、拒否するつもりはない。ただ、その問いを正面から受け止めたかった。
最後の力を込めて、自分を支える腕を引き、景麒の首に手を回すと、重なったその身体ごと陽子は床の上に倒れ込む。
肩を捩るようにして、ようやく真っ直ぐ見ることのできたその目は、思った通りの色をしていた。
それを目にした瞬間、何もかもが諒解できたような気がして、陽子は手をのばし、目を逸らそうとする景麒の身体を引き寄せる。
互いの身体にめぐらせた腕の中で、何かを口にしようとする景麒の声を唇で塞ぎ、その夜初めての長いくちづけの後、彼の耳元で陽子は囁いた。 ――もう、いいから。 ―――――――――――――――――――― やがて呼吸が鎮まり、心臓が再び穏やかに打ち始めた頃、景麒の手がいたわるように髪に触れるのを陽子は感じた。 ――夢を見た、と彼は言う。 できることなら、こうして身体を重ねるようにその夢の中に分け入って、不安の芽を摘み取ってやりたかったが、それは不可能だった。人であり麒麟である二重の存在にとっては、あらゆる怖れが二重の意味を持つ。
自分の肩の上に伏せられた金髪に手をのばすと、顔を見られたくないのか、彼はわずかに身を引くようにした。
――怖がらないで。お願いだから。
両手でその顔をこちらに向けさせて、陽子は彼の額に唇で触れる。
以前ならこのまま沈黙のうちに、自己嫌悪の中へと彼を引き退がらせていただろう。けれど言葉だけでは表し切れない何かを伝えようとするとき、身体がそれを補ってくれることを知って以来――それはちょうど、彼の人としての部分と麒麟のそれを分けて考えるのを止めた頃だったのだけれど――陽子は手をさしのべることを怖れなくなった。
警戒する小さな鳥を宥めるように、額に唇を当てたまま静かに背中を撫でている内に、肩の辺りに残っていた硬さが少しずつ溶けていくのが分かった。離そうとした唇を、それを追うようにのばされた手が引き止める。 それが重なる直前、聞き取れないほど低い声で、景麒は何かを囁いた。 床の上でもういちど――今度はとても穏やかに、時間をかけて愛を交わした。 手を止めた景麒が、声を聞かせてくれと言う。あなたの声が、聞きたかったのだと。 何を話していいのか分からない、とため息とともに陽子が答えると、では何を話していいのか分からないその状態を言葉にしてほしいと彼は言った。 それはとても真摯な声だった。 けれど浅く速い呼吸の中で、形になり得る断片はどれも思考をすべり落ち、ゆるやかな二度目の波を迎える手前でもう何も考えられなくなる頃、乞われた言葉はようやく音を伴ってこ
這是...
回覆刪除景陽18,請注意,是景陽,不是陽景
日本的大大寫的文
寫得很棒!
但是整篇翻譯起來會很累...所以直接貼日文版的啦~
(飄走)